京都民医連第二中央病院広報誌 2005年11月発行 号外
1990年代
激動の時代
京都民医連第二センター病院としてスタート
様々な困難を乗り越え、「転換」をはかる
厳しい経営環境のもと地域や患者さん、職員にも依拠し京都民医連・法人内事業所の力も借りながら必要な機能分担や経営構造の「転換」を図ってきました。お年寄りを大切にする病院、保健予防・消化器疾患などの質の向上、法人としての診療所建設の具体化など総合的な医療活動は「転換」にとって重要な方針でした。
かねてからの念願であった老朽化した北館の改築を1997年に実現。事業には多くの方からの期待が建設協力金という形で寄せられました。同時に病院名も変更し文字通り京都民医連の「第二センター病院」として位置付けられ、あらたに高齢者医療や消化器、呼吸器の取り組みをすすめました。
また、1999年には「あすかい診療所」「療養病棟」の開設へと、今日的な基礎を築く取り組みは今も地域の皆さんとともに息づいています。
友の会有吉会長と安井浩元院長、京都民医連前田事務局長(当時)で最初の旧北館のとりこわしを
療養病棟開設
旧北館
安井病院から病院名改称
あすかい診療所オープン
総合リハビリテーション
手術室
友の会の青空健康相談
阪神大震災での救援活動
年表
年度 | 社会情勢 | 病院・信和会の事業 | 医療活動・社会保障の取り組み |
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1990(H2) | 湾岸戦争、バブル経済崩壊 | 作業療法室開設 | |
1991(H3) | 老人保健法改正、ソ連崩壊 | 経営危機・京都民医連内支援 | |
1992(H4) | リクルート事件 | 「北館改築」の提起と第3次発展計画の総括 医療構想検討委員会の立ち上げ |
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1993(H5) | 京都市国保料値下げ 直接請求運動 |
北館改築建設協力金開始 訪問看護ステーション「たんぽぽ」開設 小児科、整形外科縮小 老人デイケア開設 |
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1994(H6) | 法人機構改革 京都市在宅介護支援センター併設 |
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1995(H7) | 阪神淡路大震災 | 京都民医連第二センター病院建設着工 「ありがとう北館・つくろう第二センター病院」 集会 |
院外処方箋発行 ヘリカルCT導入 阪神・淡路大震災救援支援活動 |
1996(H8) | 新北館オープン 岩倉に洛北診療所開設 訪問看護ステーション「どんぐり」開設(東山区) |
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1997(H9) | 消費税5%、健保本人2割負担 | 京都民医連第二中央病院オープン(病院名改称) 泌尿器外来、眼科外来開設 |
MR稼動 カラードップラー EUS導入 新看護体系2:1看護に |
1998(H10) | 総合リハビリテーション施設認可 新設診療所(門前診療所)建設の提起 |
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1999(H11) | 療養病棟(ベッド数50床)の開設 2000年問題対応のコンピュータの全面入れ替え 京都民医連あすかい診療所開設 ヘルパーステーション「こでまり」開設 |
元院長
安井 浩
昭和30年・1955年・信和会安井病院は初代院長安井信雄の18年にわたる開業暦を土台に設立されました。「近代医学の恩恵から見放されようとする人達に無差別平等の精神で医学の発展に応じた適切な医療を行う」というモットーのもと、地域の人々から大きな支持と共感を得るとともに、全職員が一丸となって奮闘しました。たちまち外来患者数は300人を超え、5周年を迎えて病床を40から100に拡大し、その後、今日まで地域の健康の担い手として奮闘し、今では病床242、診療科15を備え、信和会創立50年を迎えることとなりました。この間、97年に安井病院は京都民医連第二中央病院と改称し、地域の中核病院として、左京区では大きな役割を果たしております。
病院創立時、私は京大医学部の学生でした。この50年は医師としての私の生涯とともにあり、病院の歴史をつぶさに見てまいりました。困難も、喜びも職員・患者さんとともに多くの思い出があります。
私事になりますが、小児科で診て大人になり、結婚され、またその子供さんを診て、今も、年をとって診察に来られる方があります。めったに経験できない貴重で幸せなことと感謝しております。
86年、私は三代目の病院長に就任し、96年まで勤めさせていただきました。病院発足以来活躍してきた「健康を守る会」の歴史的発展として、病院友の会が活発に活動し始め、地域の医療の充実に向けて病院とともに多岐にわたる医療活動の受け皿として活躍して戴きました。90年代バブル崩壊の頃、病院は過剰の投資が十分活用できず経営上厳しい危機がありました。京都民医連の援助と指導のもと、これを克服すべく職員一丸となって奮闘しましたが、この時、地域の患者さんの中核として努力していただいた「健康友の会」には敬意を表したいと思います。